【レビュー】トイストーリー4はテーマを強く感じさせる良い作品だが、少々メッセージが多すぎたという話

レビュー

綺麗な幕締めで名作となったトイストーリー3、その続編がどんな内容になってくるのか、期待と不安が同居する中での視聴だったわけですが、個人的には非常に良い意味での裏切りを受けました。ただ、世間的な評価は割と真っ二つで、国内、外で傾向がわかれるような結果になっているようで、それもまた理解ができる内容でもありました。キャラクターとストーリーに関してはサラッと流して、評価がわかれてしまう部分に焦点を絞って記事を書きました。ネタバレを回避したい人は「テーマ評」の中を読まなければOKです。

キャラクター評

個性的なキャラクター群が魅力的なこのシリーズ、新しいキャラクターも例に漏れず個性豊かで、特にコメディアンのような立ち振る舞いをするダッキー&バニーとデューク・カブーンは私のお気に入りです。後述しますが、4は全体的に暗い雰囲気、シリアスなシーンが以前より多いと思います。その中で彼らが非常に絶妙なタイミングで笑わせてくれるので良い清涼剤となっています。

その代わり、過去作のキャラはかなり控えめで、それこそ第二の主人公でもあるバズ・ライトイヤーですら今作は出番がかなり少ないです。話のプロット、舞台的にしょうがないところもありますが、レギュラー陣に強い愛を感じる方は物足りないのかもしれないですね。

ストーリー評

全体の流れも展開も非常に高レベルです。まぁ天下のピクサー映画の中での人気筆頭シリーズですから、そのラインの心配は流石にしていませんが。内容としては今までの「友情!仲間!」的な部分から少し離れ「恋愛」にもメスが入っていますね。また、全編通してウッディの成長物語的な側面があり、それを表現をするためか舞台となる場所も相まって、全体的に暗めな雰囲気が漂っています。

テーマ評

このシリーズは普遍的なテーマとして「オモチャの喜びは持ち主を得て遊んでもらう(必要としてもらう)ことを絶対的価値観としている」というところがあります。ただ、この4は「それが果たされない現実」や「それが本当に正しいのか」という部分への揺らぎ等、ひとつ踏み込んだところの描写がメインとなっていて、それをウッディの行動を通して見ていくような流れです。特に世間で評価がわかれている理由がこの「テーマ」に関する部分で「シリーズでやるべき事ではなかった」「あのエンディングは納得いかない、今までの流れを否定してしまう」という声が、調べていく中で多く見受けられました。

テーマやコンセプトの否定とはちょっと違うと思っています

ネタバレになりますが、ウッディは最後に持ち主を離れ「(物理的に)迷子のオモチャ」になる選択を自分でします。ここに関して「友情より恋愛をとった」とか「持ち主や仲間を最優先していた主人公が自分を優先した」「これまでテーマとしてきたオモチャの存在価値や幸せの価値観を否定した」というように捉えられ、そこが悪い評価へ繋がっているような印象を受けます。実際行動だけ見るとそう感じるのも無理は無いようなのですが、冒頭から登場人物の行動、セリフ、ストーリーの流れをきっちり見ていくとそういう単純なものでは無いよな?という風に私は思えました。

自由を謳歌し、新たな世界と喜びを知ったボー・ピープも、ウッディを最後まで否定はしていません(現実から逃げている彼を諭すようなやり取りはあります)。それどころか「それが彼の良いところ」と惚れた理由とすらしています。敵対していたギャビーにも理解を示し、また最後には移動遊園地のオモチャ達に持ち主が見つかるよう積極的に手伝いをしています。もしかしたらウッディに再会するまでは本当に自由に生きることが喜びであったと思っていたかもしれませんが、ウッディに感化されたか、あるいは本心としてあることを諦めたことで次の生き方を見つけただけの結果かもしれませんが「オモチャとしての喜びと存在価値」は全く否定していないのですね。

テーマがずっと奥底で生きているからこそ、最後の選択の重さを感じるし、それがのし掛かってくる、4はこれまでのシリーズを否定しているわけではなく、在り方に変化があったものと捉えています。

問題のエンディング

多分、これまでのシリーズの流れで考えたらウッディはボニーの元に戻り、ボーとは価値観の違いからわかれ、仲間と親友と共に持ち主の元生きていく道を選ぶでしょう。なら何故そこで戻らない選択を取らせたか?というところです。

「自己犠牲」「他者の犠牲」「感情の犠牲」、とにかく何かを「犠牲」にして事を成し遂げる描写が多く、そしてウッディはボーから「ボニー(持ち主)じゃなくて自分のためでしょ」と核心を突かれます、行き過ぎた自己犠牲が当該の相手ではなく、自分が現実から目を背けるための行動だと見透かされてしまっていたわけです。ウッディは今のボニーの自分に対する扱い、フォーキーと関わり、そして救出する過程、またボーの価値観に触れ「自分の役割が終わった事」と向き合う強さを身につけ、また「新たなやりたい事」を見つけ成長します。

ウッディは後世にこれまでの全てを譲り自分は引く、そのかわりに新たな生き方を手に入れる、ボーは逆にウッディに触れた事で「持ち主に遊んでもらう」というオモチャの普遍的な価値観を思い出し、それでも自分がその生き方はもう出来ないという事を自覚し、そのかわりにウッディと共に新たな世界を見つけながら、オモチャ達を導くための生き方をする、そして、それを選べる強さは二人の間に「愛」があるから、という非常に綺麗な落とし方だと思っています(ボーはきっと一人でも生きる事自体は出来たでしょうが)。

ウッディの良いところは何も変わっていません、持ち主を想い、仲間を想い、「自分が第一線を引くこと」が周りにとっても必要な選択だと理解した上での行動なんだと。そしてまたそこで「終わった」と思うのではなく、次の人生に向けて歩き出そうという生きる強さの描写があります。ただ「自分が必要とされていないとわかりつつも本来のオモチャの役割があるから」と自問自答しながら帰ろうとする重い足どりの中、ボーに対する特別な感情や、バズの後押しがあったからこそ最後の一歩が踏み出せた(自分だけの力ではなく愛や友情があったから)、というのがまた彼らしく(オモチャだけど)人間味があり、かっこいいように思えます。「自分の事だけを考えた選択」だとか「構ってくれなくなったから離れる」とか、そういうレベルの行動とは、通して見た上で私は思わなかったです。

メッセージ性が強く、その数が多い故に

ちょっとターゲットの年齢層が高めかなぁと感じるところがあって、それは「理想と現実」の後者を強くフューチャーしていて、3の最後で一番特別な譲られ方をしたのにボニーがウッディをぞんざいに扱うとか、ウッディがボニーの親に踏みつけられる描写、「子供はオモチャをすぐ無くす」というボーのセリフあたりに垣間見えます。ただ、ボニーって3以降の短編作品であんなにウッディに対する扱い酷かったかな…と疑問、まぁその辺りも含めて「子供の変化」が見えるような作品描写になっているのでしょう。また、オモチャ側の感情の成分や揺れ動きが人間と変わらない設定なのに、時間感覚は「オモチャ」である、という事も視聴者側の理解と乖離を感じる点に思えます。オモチャは子供が大きくなれば遊んでもらえなくなる、嬉しい筈の持ち主の成長が自分の首を締める場合がある(アンディは出来た人だった)、という事を知っている価値観の中で物語が動いていますからね。

「成長と別れ」が強いメッセージとなっているように思える部分も、なんていうか「手塩かけて育てた子供が自立した」とか「仲が良かった友人に家族が出来、遊ばなくなってしまった」とか、そういう「成長し距離感が変わってしまった」「感情とは別の事由で誰かと別れた」という経験が無いと刺さらないというか、ウッディの選択と各キャラクター同士の感情や互いの距離感を意識するのが難しいのではないかな、と。私としてはバズとウッディの最後のセリフは、それまでの沢山のシーンや多くの言葉を置き去りにするほどの強い「親友の絆」を感じる一言でした。

1〜3は「オモチャだからこその役割があり、できることがある!」的な主張でしたが、実はそれは「あくまで持ち主に必要とされている前提である」というのが4。ある種「オモチャの幸せはかくあるべき」というシリーズとしてのテーマは全体主義的であり、個を尊重する考えとは真逆にあります、また「必要とされなければ存在価値を見出せない」というのは主従的な関係の現れでもあります。「個々に自由があり、幸せを追う権利がある」というのは今現在の世の中の流れを見ていると思う一方で、できるだけシリーズの積み上げを邪魔をしないように、でも作品として伝えたい事を表現するプロットが主題を濁らせてしまい、視聴者に伝わりづらくなってしまったのかな、というが私の落としどころです。

これまでの幸せのロールモデルを破壊し、主人公たる人物の一人がイレギュラー側に立つ、というだけでも否定意見が多そうなのに、そこに色々な側面のメッセージがあって若干胃もたれするような感じは見受けられます。この辺りの若干のチグハグさは、途中で脚本家がかわり、後から過去作とそれまでの脚本と整合性を求めたためのものかもしれません。